2015年08月27日

旅たまショット〜仙台郊外の夕焼け

多賀城から南下する際、仙台の混雑を回避しようと海岸沿いの道(県道10号)を走りました。右手には夕日が見られそうです。沈む前に車を止めてしばらく眺めていましたが空が真っ赤に染まりだして夕焼けがとってもきれいでした。あとで低く飛ぶ飛行機を見てそこは仙台空港の近くだったということを知りました。津波の被害にあった仙台空港…、だとするとこの辺りも津波は来たのかなぁ〜と思いました。

仙台郊外で遭遇した夕日。↓
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陽が沈み、そして、空は真っ赤な夕焼けに・・。↓
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近くの仙台空港。↓
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posted by ペコム at 10:39| 旅たまショット

2015年08月24日

もう一つの奇跡の一本松

「奇跡の一本松」は陸前高田市にありますが、南相馬市にもあることを知りました。

そのきっかけとなったのは南相馬市で行われた東日本大地震の復興植樹にいとこが参加したことでした。「南相馬に行った時は見て来てネ」と云われていました。

盛岡からの帰り道、南相馬に寄りました。7月26日でした。この日、南相馬は「相馬野馬追」でしたので、ついでにちょこっと見てきましたが、本来の目的は忘れていません。
「植樹」された場所は大まかなことしかわかっていませんでしたので、臨時駐車場となっていた小学校で案内をしていた市職員の方に詳しい場所を伺いましたら、「奇跡の一本松」と「南相馬の萱浜」の2か所あるとのことでした。
「奇跡の一本松」と聞いて(ニュースで聞いたことがある・・)と思ったのですが、(でも南相馬だったっけ?・・)と半信半疑で向かいました。奇跡の一本松の場所は鹿島にあり「鹿島の奇跡の一本松」と呼ばれているそうです。いとこから聞いている場所は南相馬ですので、おそらく「萱浜」の方だなと思いながらも行ってみました。
津波前は松原であったであろうその辺りは原野と化し、ところどころに重機があって工事は続いていると思いました。遠くからでも一本だけ立っている松の木はすぐ分かりました。そして、近くまで行って、ニュースで見た「奇跡の一本松」とは違うことも分かりました。がく〜(落胆した顔)

南相馬市の「鹿島の奇跡の一本松」。↓
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同。↓
15072606かしまの一本松F.jpg

同。↓
15072606かしまの一本松.jpg

同。↓
15072606かしまの一本松C.jpg

陸前高田の一本松は、その後、枯れていることがわかりモニュメントとして残すことになった、と聞いています。こちらの「かしまの一本松」は今も生きていて子孫を残そうと活動している模様です。いずれにしても後世に記憶をつなげるためのシンボルになれば良いな、と思いました。
松の木にはカラスの巣らしきものがあり、そして、原野となったこの場所ではセッカが鳴いていてどんな処でも自然の営みは続いている、と思いました。

一本松の上部にあったカラスと思われる巣。↓
15072606かしまの一本松E.jpg

いとこの植樹したと思われる「萱浜」は、通行止めとなっていて(迂回も試みましたが)訪れることは出来ず断念しました。ふらふら また機会があれば寄ってみようと思います。

おまけは、せっかくですので南相馬の「相馬野馬追」の戦場に向かう騎馬隊の行列を載せておきます。↓
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posted by ペコム at 11:34| みちくさ話

2015年08月22日

霧の浄土ヶ浜

7月、盛岡から宮古へ回ってみました。

あの東日本大地震からはや4年になりましたが、宮古の街は工事現場の真っただ中に迷い込んだ感じがするようなまだまだ復興の最中でした。浄土ヶ浜は、ビジターセンターから海沿いに歩いて15分のところにあります。地図をもらっていざ出発というところでものすご〜い夕立が降ってきて足止めをくらいました。途中で降られるよりはましですが、すぐ先の車に戻るのさえ躊躇するようなまさにバケツをひっくり返したような豪雨で雨宿りがてらにビジターセンターをもう一巡りしました。
その後、ビジターセンターも終わりの5時に近くなっても雨は降り止まず浄土ヶ浜は明日にすることにして「道の駅みやこ(平成25年7月にリニューアルオープン)」で車中泊しました。雨は夜更けまで降っていましたが、夜明けの宮古港は静まり返っていて一番電車の音がいつまでもいつまでも響いていて遠くまで聞こえていたのが印象的でした。一番船も出港し、被災地宮古の一日が始まります。

リニューアルされた「道の駅みやこ」。↓
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出港する一番船。↓
15072402宮古港A出港1.jpg

夜明けとともに浄土ヶ浜に行きました。たぶん38年ぶりです。その時はバスで来たと思います。海は徐々に霧が発生し着いたころは霧の中。ぼんやりと見える浄土ヶ浜になんとなく昔の景色が思い出されました。何も見えませんが、これはこれで幻想的な景色でした。浜辺には親子のウミネコがいました。

霧の中の浄土ヶ浜。↓
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ウミネコの親子。↓
15072405ウミネコ親子C.jpg

大地震の津波を受けた浄土ヶ浜。たぶん、昔のままではないとは思います。霧の中でおぼろですが一応姿を留めているように見受けました。そして、宮古の街が復興することを祈ってやみません。わーい(嬉しい顔)

posted by ペコム at 14:29| みちくさ話

2015年08月13日

越中国一宮〜射水神社

一の宮、二の宮、三の宮の神社の格付けがされたのは平安時代の頃らしい・・・のですが、昔から、旅先で看板などを見つけるとつい寄り道をしたくなるのが一の宮でした。

越中(えっちゅう)の国とは、今の富山県です。
越中の国で一の宮争いがあった…、とされる「気多神社」と「射水神社」。一の宮争いは射水神社に言い伝えがあり、加賀の白山比盗_社にはそのように記されている書があるそうです。

射水神社(いみずじんじゃ)は、現在は高岡市の高岡城本丸跡に鎮座していますが、それまでは二上山麓にありました。旧社地は本宮二上射水神社として現在も鎮座しています。延喜式では越中の国には明神大社は1社であり、どちらにも一の宮と記された書が残されていて果たしてどっちが正しいのかはっきりとしないようです。どちらもそう言われた時期があったのだろう…と解釈しています。いずれにしろ両社は神奈備(御神体の意)とする二上山の麓にあるという共通点があります。
由緒書きによれば、主祭神は「二上神(フタガミノカミ)」で、二上神は「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」を称す、とのことです…が、また、伊彌頭(いみず)国造の祖神であるともいわれます。越中の国の射水郡は現在の射水市、高岡市と氷見市の大部分と、富山市の一部を含む広い地域でありました。幕末までは金沢藩領で高岡城は前田利長の築城です。射水郡は、高岡市や新湊市の発足離脱などにより縮小してきましたが射水市の発足により消滅しました。古い地名がなくなっていくのは時の流れ…なのでしょうが射水市となって「射水」が残ったのは良かったのではないかと思います。

高岡城跡にある射水神社。↓
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拝殿。↓
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本殿。↓
14102002射水神社E本殿.jpg

射水神社が高岡城の本丸跡に遷座するとき、氏子の反対などがあり、そしていろいろあっったんでしょうね、旧神社は本宮射水神社として残されました。こちらはお寺のような建物でも分かりますように明治以前の神仏混合、神仏一体の精神が残されているような気がします。

本宮射水神社。↓
15081104二上射水神社A社号.jpg

参道と奥に見える拝殿。↓
15081104二上射水神社D拝殿.jpg

しめ縄がありますが建物はお寺のような造りです。↓
15081104二上射水神社J拝殿.jpg

おまけは、なんとなく対照的だな…と思ったものですから、城下町高岡市の大仏と射水市(旧新湊市)の海王丸です。わーい(嬉しい顔)

高岡大仏。↓
14102001高岡大仏A.jpg

海王丸。↓14102004海王丸B.jpg

posted by ペコム at 10:45| 一の宮

2015年08月12日

越中国一宮〜気多神社

一の宮、二の宮、三の宮の神社の格付けがされたのは平安時代の頃らしい・・・のですが、昔から、旅先で看板などを見つけるとつい寄り道をしたくなるのが一の宮でした。

越中(えっちゅう)の国とは、今の富山県です。
現在、越中の国で一の宮と呼ばれている神社は四つあります。その四つとは、気多神社、射水神社、高瀬神社、雄山神社です。本来、一の宮は一つだと思うのですが、お国の事情(国の分離、併合など)によってまたその時代(の勢力争いなど)によって一の宮も変わったケースがあったようです。二〜三ヶ所ある場合は普通にありますが、四ヶ所も・・となると少ないと思います。越中の場合、あきらかに一の宮争いがあった…、と伝承や記録もあるようです。とりあえず今回は、延喜式で明神大社とされていて、そして鎮座地名が一ノ宮であることから「気多神社」をとりあげてみます。

気多神社(けたじんじゃ)は、高岡市の二上山麓に鎮座し延喜式内社に明神大社と記載される古社であります。能登国が越前から分立したあとに、17年ほど越中に併合され、その後、また分立した経緯があって、能登と併合した時期は能登の気多大社が越中の国一の宮であったが、能登が分離した際、気多大社から勧進して当時あった国府の近く(現高岡市)に祀ったものとのことです。

由緒書きによれば、主祭神は「大己貴命(オオナムチノミコト)」そして「奴奈加波比売命(ヌナカワヒメノミコト)」。
オオナムチは「大国主命」のこと、勧進した能登の国一の宮の気多大社の祭神は「大国主命」ですから当然といえば当然です。それと正妻のスセリヒメが嫉妬したと云われている越後の国のヌナカワヒメが一緒に祀られています。

社号標と入口の階段。↓
14101705気多神社B階段.jpg

参道。↓
14101705気多神社C参道.jpg

境内に上る階段と拝殿。↓
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本殿。↓
14101705気多神社G本殿.jpg

境内には越中国総社跡の伝承もあり一時は広大な伽藍を構えていたようですが、木曽義仲の挙兵で焼失してしまったとのことです。義仲は以仁王の令旨により挙兵して北陸道を進みました。その際、平家と戦った「倶利伽羅峠の戦い」での勝利は、上洛そして源平逆転のきっかけとなりました。ということでおまけには「倶利伽羅峠」を載せておきましょう。わーい(嬉しい顔)

古戦場となった倶利伽羅峠(旧北陸道)への入口。古道というより整備されたハイキングコースのようです。↓
15081106倶利伽羅峠D入口.jpg

峠に設置されている「火牛の計」の像。↓
15081108t峠C火牛像.jpg

峠から見える地獄谷。火牛に押されて平家の軍は谷に落ちて総崩れとなったと物語ります。↓
15081106倶利伽羅峠Y地獄谷.jpg

「火牛」がデザインの小谷部市のマンホール。↓
15081106倶利伽羅峠Oマンホ.jpg

次回は、一の宮争いをしたと言い伝えのある「射水神社」にしようと思います。ドコモ提供

posted by ペコム at 14:37| 一の宮